市議会平成25年3月定例会


皆様こんにちは、藤井盛光です。

長岡の市街部は雪解けも急速に進み、本格的な春の到来も近づいて参りました。先日は地元中学校の卒業式に来賓参加させて頂きましたが、希望に満ちた若人のためにも、政治が責任を持ってしっかりとした未来像を描く必要有り、と思いを強く致しました。



現在長岡市議会は平成25年度予算を審議する3月定例会の会期中です。その予算審議に先駆けまして市政に対する一般質問が行われました。今回の私の質問テーマは「宗教と社会」です。

宗教、特に伝統宗教は長い年月をかけて民衆に受け入れられてきたものであり、そこには先人の知恵がふんだんに盛り込まれています。世界的に見ても文化と宗教は表裏一体であり、社会規範や民族性を維持する上で背骨のような存在です。

しかしながら、社会の乱れが指摘され続けている我が国の現状は、宗教の社会関与を蔑ろにし、その一方で効果的な指針も未だ示されていない状態です。

大東亜戦争において日本人が国家神道を軸に驚異的な団結力を発揮し、それを脅威と見做したGHQは、国家神道の廃絶を目途とした神道指令の発令、教科書の墨塗りに代表される教育統制、新聞検閲を始めとした言論統制、戦争に関わった知識人の公職追放と徹底的に日本人から宗教色の抜き取りを行いました。

その結果、戦後日本人が宗教について学ぶ機会は激減し、カルトの跋扈と相まって、宗教は制御不能なものとの恐れ、そしてその臆病さの裏返しとしての公の宗教離れという状況につながっているように思えます。

憲法の「政教分離原則」という言葉を耳にされたことのある方は多くいらっしゃると思いますが、その本質的な意味も大いに誤解されているようです。これは政治が特定宗教の保護や弾圧を禁ずるもので、宗教を教育に生かしたり、宗教界の政治参加は全く問題ありません。「特定宗教の保護」も靖国神社参拝の例を一つとっても拡大解釈が目に余ります。

我が国の教育基本法では、第9条1項で宗教教育に関する寛容と社会生活における宗教の地位の尊重、その一方で第2項では学校における特定宗教の教育が禁じられており、ここでも何を以て「特定宗教」とするのか、解釈によって是とも非とも取れる状況です。

本来であれば民間、すなわち各家庭や地域で宗教に対する素養を子供達に育ませることが出来ればよいのですが、現状は最早そういった状況を通りすぎています。経済と同様、民間で打開できない局面は公の力を頼る必要がありますが、マスコミを極度に恐れる事なかれ政治のリーダーシップ欠如という状況ではそれも望めず、八方塞がりの状況です。

公権力と特定宗教の関わりについては、公平性の観点から超えなければならない壁は高く、現状改善は様々な困難を伴い、一朝一夕に変化は望めないだろうと私も予想します。ですが、「宗教を活かす」ということを内心に秘めて政治に携わるのと、全く宗教に気を払わずに関わるのでは、自ずと社会の方向性も異なってくると思います。

そういった観点から、健全な宗教のあり方、健全な公と宗教の関係を、社会全体で誰にはばかること無く議論できるような環境が早く整うことを願い、一般質問を行いました。

具体の内容は以下の3点です。(動画はこちらから)

1、市当局の政教分離原則の見解と、それを元に市と市の宗教界との関わりを進めてゆくことをどのように考えているか。

2、我が国の伝統的な宗教をうまく活用し、その良い面を心の教育に生かしていくべきと考えるが市の見解はどうか。

3、日本建国の神話を子供達に教えるには、神道の価値観と切り離すことは不可能であり、それが出来ない現状をどう考えているか。



答弁は予想通りといいますか、現行法を根拠とした官僚的模範解答でありましたが、その中にも宗教的な普遍的価値観の道徳教育における有用さ、状況に応じた特定宗教色の薄い行事への公の関与の肯定等、趣旨が伝わっている点もあり、今後に一縷の望みをつなぎました。

質問の中でも述べたように「過ぎたるは及ばざるが如し」と云いますが、極端な宗教依存も否定も社会にとって碌な事はありません。我々日本人が本当に賢いといえるのなら、バランス感覚を養い、宗教の良い面は積極的に活かしていくべきです。もはや我が国には、虎の子の伝統や宗教を捨ててしまったら、残るリソースはあまりありません。大局的な視座で、惰性的な社会の流れに棹さすことも必要であると信じ、根気良く取り組んで参ります。



以上





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