長岡市市民協働条例を考える


こんにちは、藤井盛光です。


年末年始を皆さまいかが過ごされたでしょうか。私はお寺のお手伝いをしながらも、何度か近場のスキー場に出かけて参りました。六日町八海山スキー場ではコブ斜面に挑戦してきましたが、情けないことに上から一本滑っただけで踏ん張りが効かなくなりました。長岡は車社会で私の場合、日々の生活で歩きまわることが極端に減りましたが、てきめんに衰えていることを実感致しました。


さて本日のブログでは、長岡市でも制定が目前に迫って参りました「市民協働条例」について考えてみたいと思います。この市民協働条例ですが、長岡市においてのそもそもの発端は森民生長岡市長が前回の市長選(平成19年)マニフェストの中で、市民協働型のシティホール(現アオーレ長岡)の理念を具体化する目的で、市民協働条例をつくりたいという指針を示したのが初出のようです。それを受けて長岡市では平成21年の春から、市民協働条例検討委員会によって12回もの議論が行われ、今年の6月議会に市長提案条例として議会に提出される見込みです。


これだけ議論が活発に進められているにも関わらず、現時点まで委員会と市議会が一度も直接意見交換をさせてもらっていない、という事実はいかがなものかと思いますが、その大半は私が議員にさせていただく前の出来事ですので置いておきます。昨年秋ごろから委員会の作成した素案を長岡市市民協働部が議会に報告する格好で意見交換がなされ、本条例の形が明らかになって参りました。以下に現時点での素案を掲載いたします。


表紙
1
2

3

4

5

6






























本条例の根本理念は、市民に積極的にまちづくりに参画して頂くことだと私は理解いたしております。そういったまちの賑わいと責任感を醸成する仕掛けを準備し、推進していくこと、これに関しては私も完全に同意いたします。しかしながらその一方で、条例というものはすなわち法律ですから、制定することにより問題が生じることのないように慎重を期さなければならないことは明白です。そういった観点からこの素案を眺めておりますと、何点か気を付けなければならないことが浮かび上がってまいります。


【1】「市民等」とは誰を指すのか


本条例の中心的対象として、「市民等」という言葉が頻繁に用いられており、公権力はこの「市民等」の行うことを尊重し、支援することと定められています。わが国の憲法においては「国民主権」が明確に謳われております。その意味するところは、政治的共同体の構成員であり参政権を持つ者だけが、市の行政に対して影響力を行使できるということですが、実は市民の定義、国籍条項は憲法、法律にもありません。本条例を制定することは、参政権のない方々、具体的に言えば外国人や未成年が地方行政に対して影響力を行使しうる抜け穴を作りかねず、違憲の疑いすらあります。これは民主党が推進しようとしている外国人地方参政権の問題と連動するものであり、慎重な枠組みづくりが必要です。


【2】公正性、公共性はどのように担保するのか


本条例においては、「市民等」の活動が市の支援すべき性質のものなのか、チェックする機関の設置がありません。これでは活動の支援可否は担当部署の恣意的な裁量に任されることになり、その審査過程を市民は容易に知ることが出来ません。審査の過程を明らかにすること、それに対して疑義がある場合はどうするのか、支援活動の決算および結果報告はどのように行うのか等々、議論の余地は大いにあるように思えます。


3月31日追記
市民団体の中には我が国の嘘の歴史、すなわち慰安婦強制連行、南京「大虐殺」などを既成事実化するために、映画作成や講演会開催など、日本国の尊厳を汚すようなことを「平和学習」の名のもとに嬉々として行う団体も存在します。民間が行う分には言論の自由や思想の自由が尊重されて当然ですが、公的機関が支援することは極めて不適当であり、そういった方々には長岡からお引き取りいただく旨の意思表明が必要と考えます。
追記ここまで


【3】市議会を縛る必要があるのか


第10条には市議会の役割として「本条例の理念を尊重する」と決められていますが、そもそも議会というものは如何なる制約も受けず自由に議論をすることがその本分です。この縛りは、仮にこの条例を施行することにより問題が生じたときに、その問題を否定的に議論することは許されないという意味になります。こういった観点から、議会に関する条文は一切必要ないと私は思います。


このように、ざっと眺めただけでも理念が先走りしすぎて危なっかしい感が否めません。法律はそもそも悪を規制するために創りだされたものであり、常に不逞な輩の存在を想定して注意深く制定する必要があります。単に理念を訴えたいだけであれば、施政方針演説や、〇〇都市宣言で済む話です。もっと深く突っ込むと、具体的行為ではなく理念を条例化し押し付ける行為は全体主義的と呼ばれます。例えば、「愛国心条例」が制定されたとしたらどんな世論の反応があるでしょうか。私は大賛成ですが、その後起こる現象は推して知るべしですね。


とは言ったものの、冒頭にも述べたように大枠の概念自体には共鳴するところもあるわけでございますので、条例の理念の中に①国民主権を尊重し国益を守ること、②チェック機関の設置を盛り込み、③市議会関連条項の削除をすれば、立法府の義務として最低限の防衛策を講じたことになると思います。


市の説明によると本条例は全国で施行されつつある自治基本条例とは何の関連もなく、市も自治基本条例の制定は考えていないということです。ですが名称は違っても、潜在的に内包しうる国民主権の否定、直接民主制の肯定、国家解体の危険性は排除しなければなりません。市長は「長岡市独自のアイディアを盛り込んだ」条例の制定を目指すということですが、ならば是非とも国民主権を尊重し国益を守るという一言を盛り込んだ長岡市独自の骨太の条例にしたいものです。(ただ本音を言えば、本当に必要な条例なの?無いと誰が困るの?という気持ちですが。)


これに関連する地方分権ならぬ地域主権、新しい公共といったフレーズ。皆さまは法政大学教授であった松下圭一氏という方をご存知でしょうか。松下氏は民主党の政策参謀とも言うべき学者で、「市民自治の憲法理論」「日本の自治・分権」といった著書には露骨に国家の否定、解体、革命といった急進的思想が表現されています。民主党政権はこの思想に則って着実に政策を遂行中です。今や戦場は国会ではなく地方議会に移りつつあります。何を大げさなと言う方もいらっしゃるでしょうが、私は保守政治家として、こういった動きから長岡市を守るため、持ち場で出来うる限りの議論を行なっていく所存です。




以上。




0 コメント:

コメントを投稿

Powered by Blogger.